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試験を統一するのはどうでしょう

 大学入試が「人物本位」なるものに変わるようですが、それってどうなんでしょう。
人物本位って結局はコネとかカネとかイエとか、そんなものになってしまうような気がします。AO入試でアイドルが有名大学に入りやすいのと同じでしょう。政治家がジバン・カンバン・カバンを持った二世三世かテレビで名の知れた芸能人ばかりになって、救いようのないぐらい堕落してしまっている現在、官僚機構によって良くも悪くも国の統治ができているといえるでしょう。その上、大学卒業の信頼性まで揺らいだら、もうこの国は終わりです。

 

 そこで提案です。 大学卒業の資格、高校卒業の資格、中学卒業の資格を全て全国一律にするのはどうでしょうか。

 そして、一定の合格点に達するまでは卒業できないようにします。また、資格試験は何度でもチャレンジでき、一番高いスコアを持ち点とします。それぞれの有効期限を設けるのも悪くありません。すると、次の段階での採用は、そのスコアをもとにすればいいわけです。もちろん早く高得点を取れる人は、繰り上げ進学も可能になります。そして、大学卒業の資格試験は、公務員や教員の採用資格にも適用され、その資格試験合格者の中から公務員が採用される他、各企業もそのスコアを見て採用を決めます。その上で、それぞれが人物本位なる基準を適用すればいいでしょう。独自の採用試験をさらに科しても構いませんが、少なくとも公務員と教員に関してはそれを禁止します。公務員採用試験と教員試験は廃止です。独自基準については、公表を義務づけます。そして、その資格を持っている限り、いつでも公務員になれるし、民間企業と官庁や教職との間を行き来できるようにもします。各大学は それぞれの入学選抜試験を設けても構いませんが、当然どのような基準で選抜するか、採点基準とともに公表しなければならないのは当然です。人物本位なのかかなりマニアックな高度な試験を科すのかなどなど、それぞれの大学の特性が出ると思います。ちなみに、大学卒業資格試験においては、日本語論文以外は全て英語にするというのはいかがでしょう。


 もちろんこれを具体化するのは大変かもしれませんが、現状の制度を前提にただ無償化するだけのような無気力な制度改革では日本は変わらないと思います。今必要なのは、既得権を認めず新たな才能に機会を与えることです。政治家もただの人気投票で馬鹿丸出しの芸能人を選ぶのではなく、まずは卒業資格スコアをどのくらい持っているかを公表した上で、さらに時間をかけたディスカッションを行って政策理念を明確にさせるべきでしょう。街宣車で「お願いしますお願いします」と喚くだけのくだらない選挙はもう必要ありません。このような実力本位であるならば、仮に途中でキャリアが切れても、スコアによって能力がわかりますし、何ならもう一度受け直してキャリアアップすることも出来ます。そうすれば、大学ブランドによる欠陥だらけのシグナリングは不要になります。

いまの大学ってやっぱりいらなくない?

 安倍首相が高等教育の無償化なるものをうちだしました。
 でも、無償化しても大学がアレでは、若者に無駄な時間を過ごさせるだけでしょう。というか、学校への補助なんて一切不要だと思うんです。むしろ文科省の役人が天下りするために補助があるんじゃないですかね。

 はっきり言って、特に文系の大学で何を身につけます? 資格試験を受けるための予備校として大学を使うならまだましですが、何となくかよって何となくバイトしてサークルやって、とにかく就活してって、それだけでしょう。単位は取らないといけないし出席もとられるから講義にはでるけど、内容は聞かず考えずに寝てるか、その後の語学の予習をするかでしょ。真剣に学ぶ学生はごく一部だけですよ。卒業後も有名大学なら大学名が飾りになるけど、そうじゃなければ何の意味もないのでは?

 とはいえ、文系や教養系も研究機関は必要だから、旧帝大をはじめとする一部の国立大とごく一部の私大の大学院と学部は残すとして、あとは放送大学で十分。もちろん短大なんてあっても無意味なので全廃。やってることは効率の悪い専門学校程度なのだから。今でも文系大卒資格は、放送大学で働きながら得られます。全国の通信課程はここに集約すればいい。
 文系や教養系をどうしても学びたい人はまず放送大学で学び、やたら優秀な人やどうしてももっと深く学びたい人が大学院や研究機関に行けばいい。あとはカルチャーセンターで十分。ただし、学問の最高レベルを維持するため、究極のカルチャーセンターであるコレージュ・ド・フランスのような機関をつくるといい。
 MBAをとるためのビジネススクールは経営系の大学院として存在すれば十分で、ロースクールは廃止して構わない。ローは存在自体が無意味(司法試験に通ってないような大学教授がなんちゃって弁護士になってるんで国民は要注意)。あとは資格系なら放送大学とか専門学校とか職業高校に任せれば十分。

 教職課程も無駄なので全廃。大卒資格以上をもっていて、教員資格試験(仮)をとれば十分でしょう。

 理系大学ならまだ存在価値があるので、存続しても意味があるでしょう。でも、再編は必要ですよ。
 まず、医学部、歯学部、薬学部、看護学部は地域ごとの医療システムとの関係から再編が必要でしょう。いまの健康保険制度だと、医療関係者って7割は公務員なんだから、もっと地域医療に密着する形で制度全体を再編成し、医学部なんかもそれに合わせて再編すれば良いのでは?

 その他の理系も再編する必要があるだろうけど、大学院、大学(学部)、高専や理数系高校(工業高校)をきちんと並べて、段階的にレベルアップできるようにするといい。

 すると、高校も普通科高校ばかり作ってないで、かつていっぱいあったように、工業高校、商業高校、農業高校を復活させて、職業教育を施すほうが意味がある。今なら、情報高校を作ってプログラミング技術を徹底的に習得させる方が、普通科高校で古典文法とか漢文なんて無駄なものを無理矢理暗記させられるより、よっぽど本人のためになる。つまり、高校も再編して、8割方の高校を職業訓練高校にすればいい。その中で優秀さを示すものには大学進学の道を開くようにするんです。

 

 したがって、教育の補助は学校に対してではなく、優秀さを示す個人に与えるようにするといいと思います。

 いまはかつて以上に東大崇拝が進行しており、受験偏差値信仰が悪化しているように思います。特に、「高学歴」の意味が変わってきたことからも解ります。
 勿論、東大京大や早慶は昔からブランドでしたし、それぞれ上位の大学に対するコンプレックスはあったでしょう。でも。その一方で、年配の方々は自分の大学に誇りをお持ちのようで、あまり卑屈さはかんじません。まぁ大学に行ったこと自体が高学歴だった時代でしたから。一方、私の接した限りですが、若い世代の方がブランドコンプレックスがかなり強く、中には本当に卑屈になっているとしか思えない言動もみられます。これは社会的な害悪です。

 これからは、どの大学を出たかではなく、どんな奨学金を得たかという「奨学金歴」で判断するといいのではないかと思います。もちろん奨学金にもランクがあり、上位ランクの奨学金を得られたら、好きな大学を選べるようにします。無理に東大に行かなくても、奨学金ブランドで評価されるようにすればいいと思います。

 大学名での評価はシグナリング効果としては不備がありすぎます。文系を例にとりましょう。たとえば、どうしても法律を学びたい人が東大文Ⅰを受けたけど落ち、早慶の法もぎりぎり落ちて、明治の法に合格して進学した場合、この人は今ではMARCHでくくられてしまいます。でも、この人が東大文Ⅲを受けた場合、早慶の別の学部を受けた場合、合格した可能性は十分あり得ます。おそらく明治でも優秀な学生として勉学に励むことでしょう。でも、ブランドはMARCH。

 また、世代間の違いもあります。今の少子化20代でぎりぎり東大に合格した人と、団塊ジュニア40代でMARCHの上位の人とでは、どちらが優秀と言えるでしょうか。世代のボリュームが違います。また、同じ東大でも昭和の東大と平成の東大では全く違うなんて言う人もいるぐらいです。70年代後半から80年代だと、地方の国立大よりも東京の私大を目指しましたし、早慶上智、そして青山や中央の一部の学部に受かった場合、旧帝大の北大や九大を含め地方国立大に受かっても、都内の私大に進学しました。この世代の方々だと、阪大名大は別格としても、それ以外の地方の国立大には関心を示さない方々が結構いるようです。

 現在は、偏差値序列化が進んで大学間の格差がはっきり見える一方で、AO入試が盛んになり優劣をつけにくくなったぶん、逆に大学間のブランド格差を強調するようになったのかもしれません。

 その点、奨学金実績があれば、別に東大ではなくても自分で選んだのだと理解されれば、十分評価されることでしょう。

 なんだか新たな利権を生み出すだけのイヤな予感がしますが、現状の教育制度が今や無意味化している点は放置できません。ですから、現状を前提とした、安倍さんの教育無償化は害悪でしかないといえます。ましてや、憲法に盛り込むことではありません。

全く無理をせず約4ヶ月で10キロほどやせました

 1月の半ばから5月上旬までに10キロほどやせました。いまでも減少が続いています。
だからといって、厳格な糖質制限をしたわけでもなく、修行のようなウォーキングにいそしんだわけでもありません。もちろん病気したのでもありません。ですから、げっそりやせてほおがこけているわけでもなく、やせたことに気づかれないことが多いです。


 実は、去年まではBMIが26ありました。血圧は上が150オーバーで、健康診断では降圧剤を飲むように勧められましたが、再検査も含めバックレ中です。糖質制限にもチャレンジしたのですが、プロの手を借りないと、やるには難しいようで、結局挫折。有酸素運動がいいというので、ウォーキングを始めようと思ったのですが、うまく時間が取れず挫折。エアロバイクを購入しても、無駄に場所をとるだけの今や巨大オブジェ。
 要するに、やせようという信念も決意もないんです。そして、やろうとする意志も根性もなし。
 一月の半ばに体重を量ったときは、こんな状態でした。

 ところが、今年の2月、実家で両親と鍋料理を食べて以来、私の中でマイブームになりました。別に特別な料理ではなく、白菜を入れてしいたけを入れて豆腐を入れて鱈をいれてというありきたりの鍋でした。味付けは「タニタの減塩味噌」。その後も週1回のペースで同様の鍋料理を食べています。要するにこれって具たっぷりの味噌汁なんですね。

 その後、日々の食生活のメインが野菜と魚になりました。
 ただし、毎日鍋料理というわけにもいきませんので、鍋は週末にして、平日用に手間をかけずに野菜をとる方法をさがしました。
 そして、「重ね煮」というのを知りました。これなら、作り置きで5日ぐらいもつとのことです。早速無水鍋を購入しチャレンジしました。ネットの情報ではIHでは上手くいかないと書いてあるサイトがほとんどなのですが、なぜか上手くいってます。本物の重ね煮とは言えない稚拙な出来なのでしょうけど、特に食べられないということはありません。重ね煮をはじめて、野菜から出る汁は「甘い」と知りました。
 直径20センチの深い無水鍋で作ったら、小分けして保存します。食べ方は色々ですが、電子レンジで温め直し、味噌をお湯でといで作った汁にいれれば、簡単な一汁三菜がお椀一つでできます。重ね煮ですと三菜どころか四菜にも五菜にもなります。
 サラダはよく食べます。ブロッコリーなど、温野菜にして食べます。その他、いちいち列挙しませんが、野菜類は普通に食べます。ドレッシングはノンオイルを選び、マヨネーズもカロリーオフのものを選びます。

 魚類は、「鯖の水煮」の缶詰と、「あじの開き」や「しゃけの切り身(甘口)」です。刺身類は日持ちしないし、高いのであまり食べません。
 他には、納豆と豆腐と卵。ナッツ類は素焼きとか無塩と書いてあるもの。
 飲み物は、緑茶、麦茶、ルイボス茶。
 間食はもともとしない方ですが、疲れたときには「明治ミルクチョコ」。植物油脂が良くないと聞いたので、ネットの情報からこれを選んでいます。

 炭水化物ですが、もともと子供の頃からごはんよりおかずばかり食べるバカガキで、よく母に叱られました。そのためか、ライスがなくても食事が苦痛ではないのですが、食べるときは普通に食べます。といっても、茶碗1、2杯。可能な限り、玄米や胚芽米にしたり、麦を混ぜたりしています。卵かけご飯も普通にやってます。うどんやソバも普通に食べます。
 ただし、パスタ類はあまり食べなくなりました。もともと好きだったのですが、最近は特に食べたいとも思わなくなりました。
 芋類はほどほどです。とくに排除してませんが、量的には少ないと思います。
 なお、「普通に」というのは、特に意識して制限していないということです。ただ、もともと炭水化物類にこだわりはないので、実は無理に制限しなくても、糖質は少なめだったとも言えます。

 肉類はあまり食べませんが、鶏肉や豚肉は食べます。牛肉は自宅では食べません。ミツカンのサイトにのっている、味ぽんを使った鶏肉のレシピを真似て作っています。

 外食では、例えば大戸屋に入ると五穀米をチョイスする程度のことはしますが、それ以外に神経質になることはありません。寿司は酢飯まで食べてこその寿司。ライスを残すなんて失礼です。
 時間がなくて立ち食いソバをよく利用しますが、おなかがすいているときは、「ミニカレー+かき揚げソバ」セットとか「かけそば+ミニカツ丼」セットなんて炭水化物満載メニューも平気で注文します。多少のリバウンド要因になっているかもしれません。

 去年までと比べてほとんど全く食べなくなったのが、スーパーの総菜コーナーやコンビニで売っている総菜類や弁当。スーパーの揚げ物、例えば唐揚げ、餃子、天ぷらは全く買わなくなりました。コンビニで購入する場合は、せいぜい「おにぎり」程度にとどめます。

 こういった食生活の変化によって、去年まで自分が太っていた原因は、どうも「油」と「添加物」にあったのではないかと考えました。3月になってこのことに気づいてから、日一日と体重が落ち、体が軽くなり、心身ともに軽快になりました。

 少々の増減はあまり気にしないことが大事だと思います。神経質になるとそれ自体がストレスの原因になります。1キロほどリバウンドしても気にしないで、そのかわり、その前に何を食べたかを確認します。多分犯人はそいつです。

 今でも特にウォーキングとかフィットネスとかしてないのですが、やせてからは歩くのが苦痛ではなくなり、今まではすぐにバスに頼っていた区間も大して気にせず歩くようになりました。一日の歩数は普通に生活していてもだいたい6000歩から10000歩になります。

 5月に入り、血圧は上が120台、下が70台になり、あとは早朝高血圧に注意する必要があるのですが、寝ている間に体を冷やさなければ早朝の血圧も安定するようです。BMIは日々増減がありますが22ぐらいになっています。
 ただし、内臓脂肪率はあと一歩なので、そろそろ有酸素運動に取り組もうかなと考えています。そして、大きくリバウンドしないように、これからが大変なのかもしれないと思い始めております。

保守かリベラルか-実はみんなコンサバなんです

 現在、日本では野党側がリベラルといわれ、左翼とほぼ同義とみられています。でも、本来のリベラリズムなのかというと、結構違うのではないかと思います。

 実は、日本の政治主張はみんなコンサバティブなのだと思うのです。だから、保守かリベラルかという二分法は本質を見誤らせることになると言えるでしょう。

 では、違いは何でしょうか。
 安倍政権的保守は大きな政府を維持しつつ、国際関係では現実に合わせようとしているといえます。理念的には戦前回帰を志向していますから、国民生活については古くさい思考から抜け切れていません。
 民進党的保守は巨大な政府を維持しつつ、国際関係においては消極主義をとります。理念的には戦後成長期を志向していますから、国民生活についてはとにかく保障をするために政府がどんどん出費するべきだという古い考えから抜け切れていません。
 要するに、自民=明治、民進=戦後昭和であって、タイムマシンで戻りたい時代がちょっと違うだけです。そして、どちらも現在の体制を存続させようとすること自体は変わりませんから、セピア色化の度合いが違うだけで、どちらも昔の写真を懐かしんでいるだけに変わりはありません。
 他の泡沫政党は論じる価値も存在価値もありませんから、言及しません。

 今の日本に必要なのは、政治構造と社会構造のコペルニクス的転回です。21世紀の「革命」が必要です。維新なんて生やさしいレベルではありません。ただし、革命という言葉を使うと社会主義革命のイメージが強く、昭和後期にことごとく国民を虐げた極左テロに通じますから、用語として穏当ではありません。あえて別の言葉を使うなら「大転換」とでも言っておきましょう。

 大転換では、平成の今でも社会の根幹を形成している昭和的総動員体制を清算しなければなりません。それは、本当の意味で日本人を「個」に解体することになります。政府は外交、防衛等の最低限のことをおこないます。教育等は地域に分割し、行政は福祉単位で構成するとともに、民力を大いに活用します。規制も最小限で構いません。

 こう述べると、「結局、小さな政府だろ」とか「リバタリアンか、おまえは」と言われるでしょう。旧来の思考からすると、そう分類されても否定はできません。

 大事なことは、現在と未来の日本及び日本人にとって必要なことは何かを根本に据えるということです。
 国防についても、ようやく自衛隊合憲化に向けて動き出すようですが、現状はというと、自民=現状拘泥対米追従主義、民進=観念的妄想平和主義であって、どちらも本当に日本人のことを考えているとは言えません。

 なお、小池ポピュリズムというこれまた20世紀前半レベルのメチャクチャなご都合主義が蔓延し始めているところをみると、日本人の未来は暗いなとしか思えません。
 自民が明治に帰りたいという妄想を抱き、民進が平和ボケの末期症状となり、その一方で、安易な大衆扇動的ポピュリズムが簡単にわき上がる現状、このままでは日本の未来には絶望しか残りません。

 変わらなければならないのに変われない、解っているのに止められない、そして、思考停止。高齢者なら仕方ないかもしれませんが、実際は、若い世代も現状に追従しているだけではないでしょうか。そして、アニメやゲームのファンタジー世界に逃げ込むか、でなければ、現状を良しとして悟りを開くかなのでしょう。妄想と悟りとは何とも皮肉な組み合わせです。

過剰コンプライアンスと事なかれ主義

 

            

news.livedoor.com

 

 上記記事にあるような過度のクレームは事実上の業務妨害だと思います。ところが、ごく少数の異常な人たちに対して、組織はいちいち対応し、一つでもクレームがあると禁止になります。上層部が自分の失点にならないように事なかれで済まそうとするからです。そうやって、現場をがんじがらめにする過剰コンプライアンスができあがるというわけです。

 しかし、大部分の市民はクレームにあるような内容を気にするでしょうか?

 過剰なクレーマーというのは本当にごく少数のアタマのおかしな変人です。
 もちろん公務員の側に明らかな非違があれば、謝罪もし処分も必要でしょう。しかし、食事といいトレーニングといい、彼らに必要なものです。それをきちんと説明できない上層部が無能なのでしょう。相手が納得しなくても、説明責任を果たせば、十分です。所詮わかろうとしない変人ですから、不必要に相手にする必要はありません。
 上層部が過剰クレームに対し、毅然として拒絶する姿勢を見せるべきです。部下を守れないとしたら上司失格です。クレームが悪化しその対応で業務に支障をきたすというなら、警察を呼び、威力業務妨害で告訴すればいい。それだけの話です。

 救急隊員は、救急車を利用する必要のないような場合でも呼ばれれば急行します。それこそ問題視すべきで、明らかにふざけた119番に対しては過料を科すようにするべきでしょう。一方でくだらないことで呼び出され、一方で些細なことに目くじらを立てられる。とてもじゃないがやってられないということになります。

 自衛隊、警察、消防隊、救急隊などは、いざとなったら身をとして市民を守る人たちです。食事中でも出動命令がでれば食事を中断して出動することでしょう。その食事すら制限されるとなると、もはや人権問題です。常識の範囲で許されるべき彼らの自由も奪うような過剰な束縛のせいで、いざという肝心なときに手枷足枷で市民を守れないという大きなしっぺ返しとして、自分たち市民に降りかかってくると知るべきです。

 今後は、過剰クレーマーこそ、市民の敵であり、もし彼らが過激なクレームや理不尽な抗議活動を行ったとしたら、テロリストに準ずる扱いをしても構わないと思います。それぐらい酷いことをしていると理解できないからこそ、過剰クレーマーになるわけですが・・・。

自分が死ぬときのこと - 介護という「無理」と「無駄」

 ちょっと酷いサブタイトルでしたか。本当は、タイトルとサブタイトルが逆だったのですが、これにしました。他人様のことではなく、自分について言いたかったからです。

 今日の日中、NHKの番組を見て、自分の老後、それも死ぬ時ってどうなんだろうなぁって思ったんです。金のない下流老人となりまともに生活できないで飢え死にする、かも。でなければ、身寄りがなく、人知れずぽっくり逝って、偶然誰かに発見される、かも。あるいは、ボケがひどく、介護施設に入れられて、寝たきりになっている、かも。でなければ、なにもかも失って彷徨し野垂れ死ぬ、かも。いずれにせよ、なんだかやだなぁって思います。

 以前は死ぬのがコワかったのですが、今は死ぬことそれ自体は何となく既定路線としてどうあがいても必ず来ることなので、それはそれでありなのだろうと思うのです。それより、結局、老後も最期も誰かに迷惑をかけざるを得ないことがイヤなんです。
 かといって、人知れずどこかで自殺するというのもイヤだし、そもそもコワいのとかイタいのとかご免だし。

 もちろん生きている限り生き続けますが、最期が見苦しいというか、晩節を汚すというか、そこをどうにかして、きれいに上手く終わりたいと願っているんです。あとのことはどうでもいいです。骨になったら海にでも放り投げてもらって構いません。墓もいりません。遅かれ早かれ、そんなもの訳わからなくなるんですから。

 そこで思いました。寝たきりになってボケていつも意識朦朧として自分のことを自分でできなくなったら、寝たまま、まるで寝ているかのように死なせて欲しいなぁって。
 そのためには、お医者さんの協力が必要です。でも、たとえ本人が望んでも今の法制度では無理でしょう。もし情にほだされて実行してくれたとしても、今度はそのお医者さんが法で裁かれることになります。

 ですから、生命維持活動のみで精神活動の不可能になった段階で、静かに死なせてもらえるのを認める法律をつくって欲しいと思います。

 もちろんイヤな人は今のままでいい。でも本人が、まだ意識のはっきりしているうちに強く望んだなら、その意志は尊重して欲しいのです。

 死ぬことより、要介護の寝たきり老人になることを恐れる今日この頃です。

働き方改革というインチキ - 再配達問題から思ったこと

 働き方改革と言われています。だいたい、残業をなくすとか育休をとるとかいった話です。でも、今の現役世代にはとうてい無理な話なんですよね。

 政府がやらなくてはならないのは、働き方ではなく、雇い方の改革なのではないでしょうか。

 ところで、例のクロネコヤマトの問題について言わせてもらいます。
 あの問題、アマゾンの荷物が多く、再配達が多すぎて負担になっているためにヤマトが酷い目にあっているみたな、つまり、アマゾンの荷物が多いことと配達しても不在なことがいかにも悪いことのように報道されました。少なくとも私はそう受け取りました。だから、よく来てくれる担当のドライバーさんのことを思いだし、アマゾンで買い物をするのをためらったりもしました。

 でも、配達業者が責任をもって届けるのは当然です。不在がいかにも悪いように言うのは問題の本質をずらしているのではないでしょうか。そもそもの問題は、ヤマトの雇用形態と労働条件であり、経営側のシステム構築の不備であり、アマゾンの荷物を文字通り安請け合いしたことにあるはずです。
 たしかに現場のドライバーさんの努力には頭が下がります。いつも時間内に届けてくれて感謝しています。でも、現場が何とかしてしまっていることで、上層部が根本的な解決を怠っていたのであり、あくまでも責任はヤマトの上層部であり、問題の原因もすべてそこでしょう。予告もなく配達に来て不在でしたなんて当然織り込み済みのはずです。
 再配達を有料にするなど本末転倒の議論がまかり通るのは、みんな本質を見ていないからだと思います。

 このヤマトだけではなく、様々な雇用の場において現場の労働者に全て無理がかかっています。そして、働き方改革などというのは所詮は公務員や一部大企業のような恵まれた人達だけに当てはまることでしょう。いくら政府がそのような政策を推進したところで、ギリギリでやっている中小企業には無理ですし、非正規雇用の人々には全く関係のない話です。つまり、働き方改革はいまの正規非正規の身分差別を助長するだけでしかないと思います。

 今必要なのは一部の恵まれた既得権をより強化するようなことではなく、もう一度全ての労働条件を同一にすることではないかと思うのです。まず正規非正規という身分差別を撤廃する必要があります。そして、労働者の流動性を図るような制度設計が必要です。諸悪の根源は、一度レールを外れたら二度と復活できないような雇用制度でしょう。正規雇用の解雇規制がその根本にあります。そすれば大企業に存在するという「追い出し部屋」なる陰湿なやり方も不要になります。企業側も労働者を合理的に雇用し解雇できますし、労働者側も簡単に再就職できるようにできればいいだけです。これは公務員も例外ではありません。公務員雇用の年齢制限を撤廃すべきです。

 これは正規雇用を束縛している現在の問題から彼らを解放することにもなります。辞めたくても辞められないで追い詰められて自殺するなんて悲劇もなくなります。いやなら辞めればいいんですから。
 人材の流動化と社会保障制度の再構築はいまの疲弊した日本を生き返らせるためにも絶対必要なことだと思います。
 頭のいい学者先生、特に経済学者は反対するでしょう。もちろん企業の側も反対するでしょう。でも、何もかもが制度疲労を起こしていると考えればもう一度根本から立て直さない限り、小手先の方法を用いても何も変わりません。それでいて、どうにもならなくなり結局ガラガラポンというのでは、20世紀前半の敗戦と全く同じです。次の焼け野原では再び立ち上がれるとは限りません。かろうじて国力を保っている今こそ自己改革が可能だと思うのです。

 そのためには、正規非正規の差別を人権問題と考え労働法制の改革の第一歩とすべきではないかと思います。まず、「正規非正規差別禁止法(仮)」と「解雇再雇用流動化法(仮)」を制定すべきだと思います。